子どもたちと日々触れ合っている中で『おっ、これは?』と思う瞬間がいくつもあります。遊んでいる中で話し合ってルールを決めるなどの社会性を見せてくれる場合もそうですし、会話の中で疑問(知りたいこと)をストレートに「なんで?」「どうして?」という言葉で質問を繰り返すなど“考える”ことをあからさまに大人へぶつけてくる姿もそうです。何でもない日常の中で子どもの成長を感じられる嬉しく楽しい瞬間です。子どもたちって発想が自由だからこそあらゆることが学びになり成長へとつながっているんだなあといつも感心します。
また、子どもたちの感性や感受性に驚かされることも少なくありません。先日、子どもたちと触れ合っていてその感受性に素敵だなとうなずいたことがありました。0・1歳児クラスの部屋にて1歳になったばかりのUちゃんがつかつかと私に寄ってきて、手に持っていた果物の絵がついている積み木を私にくれました。「くれるの?」と聞いたらコクンとうなずきましたのでお礼を言って積み木に描かれていた苺を食べる真似をしました。「あー、おいしかった。Uちゃんもどうぞ」と言って積み木から苺を取り出す真似をして口元に運ぶと口をもぐもぐしておいしそうな表情をしたのです。それを見て、子どもにとって遊びは常に本当のことであり、常に本気であること、遊び自体がこの子たちの社会なんだなあと感じるとともに、その本気を保育者として大切にしていきたいと思った瞬間でした。私にはいま小学校2年の男の子と幼稚園年少の女の子の孫がおりますが、少2の男の子の方が幼稚園に通っていた数年前にちょっとしたタイミングでつぶやいた言葉が楽しく、その感性にも感心したことからメモ用紙に書き留めておきました。少し紹介します。
『あめあがったよ でもあめのにおいはしたよ』(玄関の新聞を取って戻った時の言葉)
『ゆうやけのやまってかきごおりみたいだね』(夕日に染まった山を見て言った言葉)
『あめさんぽ あめのにおい』(雨あがりに散歩に行った際につぶやいた言葉)
『おいしいってきもちがうれしくなるよね』(一緒に夕ご飯を食べていた時の言葉)
目に入った風景から、感じ取った匂いや食べること自体からこんな素敵な言葉が生まれることにただ感心するばかりです。
人は大人になるにつれて子どもの時には持ち合わせていた「感覚」や「感性」を少しずつ忘れて(失って)いき、子どもには正しさだけを教えようとする傾向が強いように感じます。最近読んだコラムに、そのような(正しさだけを教えようとする)関わりは、子ども自身の感性をその子なりの「こうやったらどうなるだろう?」「それはどういうこと?」という疑問を持つことが難しくなるというようなことが書かれていました。また、大人が子どもの色々な感性に気づくことは、その子どもなりの行為やつぶやきを“待つ”ことで見えてくるものであり、それが「見守る」ということなのだとも書いてありました。大人が子どもの感性を見守る気持ちを失わずに子どもと接しながら、子どもが自身とは違った感覚や考え方に出会い、複雑で豊かな心が育ってくれることを願っています。